マイストーリー

幼少期

福島県郡山市で、両親と弟の4人家族で高校卒業の18歳まで過ごす。  
喘息があり、身体が弱く幼稚園をよく休んでいた。

小学校時代

ずっと憧れていたピアノ。幼稚園の時には習わせてもらえなかったピアノ。
小学校に上がり、ピアノを習いに行ったときには、忘れもしない「川はよんでいる」の曲を両手で弾けていた!
小2のある朝、体育館から合唱が聴こえてきた。そのハーモニーに魅了され、毎朝体育館に通い聴き入った。
小4にならないと特設合唱部には入れず、やっと小4になり、歌えることになった時の幸せ。
全身で歌った!
そして、小6になってピアノ伴奏に抜擢され、ここから伴奏ライフが始まった。

中学時代

中学校に入学と同時に、合唱部に入部。
合唱王国福島で、この中学校は、市内で1,2を争うレベルの高い市立の中学校の合唱部だった。  
やっと歌えると喜んだのも束の間、伴奏をしていた先輩が転校し、伴奏に大抜擢。
でも中学校の合唱曲の伴奏は、なかなか中1には難しく、自分のピアノ曲の練習はほとんどできなくなり、伴奏人生に身を捧げることとなった。
今考えると、大人の自分から見ても上手な伴奏だった。そのおかげで、私のピアノは磨かれたと思っている。

中3のある日。
合唱部の顧問の先生から「国立音楽大学の教育科の合唱団が来るんだけど、聴きにいかない?」と誘われ、国立音楽大学教育音楽学科行脚合唱団の公演に行った。「こんなすごい合唱団があるのか⁉」と衝撃を受け、ここで人生が決まる。
「国立音大に行く!そして行脚合唱団で歌う!」と決めた。

高校時代

高校に進学し、迷わず3年間合唱ライフを送る。
合唱に明け暮れ、国立音楽大学への進学を夢見て勉強をしていた高2のある日。突然日記にこう書いた。
「私、養護学校の先生になる」・・・小6のころから音大に行く勉強しかしてこなかったのに、今さら、福祉大に進学など考えられず、どうしようかと考え・・・考え・・・「国立音楽大学でリトミックを専攻して、音楽の先生として養護学校の先生になればいいじゃないか」という結論に達した。高校2年生の私にブラボーと思う!

大学時代

国立音楽大学教育音楽学科リトミック専攻に合格し、18歳で上京した。
入学してすぐに、目ざした教育音楽学科の行脚合唱団の見学に行ったものの、4年間のうち1年間しか活動できないことがわかり愕然とした。が、行脚合唱団に所属した1年間は、「真のハモり」を目指すということを極める、それはそれは濃い充実した1年間となった。
ここで出会った仲間と卒業後合唱団を立ち上げ、今はアカペラのグループとして活動しており、41年一緒に歌っている。
一生共にハーモニーを奏でられる仲間と出会えたことは、一生の財産となった。

その後

国立音楽大学卒業後、なかなか教員採用試験に合格できず(当時の教員採用試験の倍率が30倍~60倍だった)時間講師、産休代替の教員をしながら8回の教員採用試験を受け、正規の教員になれたのが34歳だった。
採用された学校は病院の中の学校で、様々な病気やがん、白血病などの子どもたちの傍で音楽の授業を行った。
見送ることもたくさんあった。授業は一期一会。交通事故で入院の子、治療でベッドサイドの授業の子、亡くなる子、急に退院が決まる子。その日その時その授業が一期一会の授業だった。
年間計画?学習指導要領?など考える間もなく、その日会った子たちと共に音楽の授業をする。
病院の中の学校に赴任して3年くらい経った時、「オレ音楽キライ」という小6男子や、授業がないのにやたらと音楽室に出入りする子どもが増えてきた。
その不思議な現象を見ている間にようやくわかってきたことは、「今この子に必要な音楽をする」こと。
入院で親と離れて寂しい日々を送る子ども。抗がん剤で具合の悪い子ども・・・音楽を一緒に奏でることで、心が満たされ病棟に戻る。治療を頑張れる。そんな、命に毎日向き合う日々。
この時から、私の教員としてのスタンスがはっきり決まった。
「この子に今、必要な音楽活動をする」こと。
命に向き合う日々から次の学校に異動し、知的障害の子どもたちと深いお付き合いが始まった。
おむつをしている子から混声三部合唱ができる子たちまで、様々な子どもたちと過ごしてきた。
時間講師から始まり、赴任した学校は12校。およそ1000人の子どもたちとともに音楽の授業をしてきた。
10年前くらいから、私の授業で変わる生徒が増えてきた。重度の生徒から、24時間テレビで踊るダウン症の子どものような中度の生徒、企業に就職できるような軽度の生徒まで、みんながそれぞれの成長を見せる。
表現する力が伸び、集団がまとまっていく。私が前に立つだけで、みんなの目がキラキラ輝き、「今日は何するの?」「次は何するの?」と期待感で輝く。
その学校は保護者が熱心で、習い事や療育に行っている子がたくさんいて、ピアノを習っている子もたくさんいた。
でも、障害を理解して教えているピアノの先生はほとんどおらず、頼み込まれて何とか教えている先生がほとんどだったように思う。
私なら、もっと上手に教えられるのに・・・  5年くらい前から、漠然と、「学校ではなく、私の音楽を必要としている人にお教室の先生として教えたい」という気持ちが湧き上がってきた。
でも、できるのかわからない。やり方も分からない。
でも、60歳の退職を前に、いよいよ本当にやってみようと思い始めた。

なぜ「養護学校の先生になる」と日記に書いたのか

高校2年のある日、「養護学校の先生になる」と日記に書いたのはなぜなのか、長い年月折に触れて考えてきた。  
私が小学生だった昭和40年代の障害がある子どもは、今現在の社会の中で普通に生活するような感じではなかった。
小学校に支援学級があり、知的障害の子どもが数名在籍していたが、当時、学校に来られるのは(養護学校の義務化は1979年)自分のことを自分でできる知的に軽い子どもだけであり、通常の学級との交流もなくひっそりと学校生活を送っていた。
周りの大人の偏見もあり、友だちになってはいけない人なのだと思っていた。
全校朝会で校歌の伴奏をするとき、グランドピアノの前に支援学級の子どもたちが並んでいた。
目の前に「友だちになってはいけない人たち」がいる。
校歌が始まると・・・歌う歌う!上手ではないが元気よく、楽しそうに歌う!明るく歌うその姿は、通常の学級の子どもと何も変わりがなく、歌が好きな子どもたちだった。
それを見た小6の私はすごい衝撃を受けた。衝撃と言うのか感動と言うのか、心を打たれ「友だちになっていい!」と思った。歌う姿は、私と同じ歌が好きな子どもたちだった。
たぶん、その感動がルーツだと思う。小6の私、ブラボー!!!

私の今までとこれから

今まで私は、子どもたちに対して、
・嘘をつかない。人として真摯に腹を割って付き合う。
・愛をもって指導する。厳しいときもあるけれど、すべて愛から発している。
・表現力を伸ばす。一人一人にその子のリズムがある。そのリズムを尊重して、伸ばし、表現力を豊かにする。どんな表現でも、一つの間違いもない。リズムが取れなくてもミスタッチしても、その子が表現したことを評価する。私の前では何をどう表現しても間違いと指摘されず褒められる。だからみんな自由にのびのび表現できるようになる。
・この子たちに、今の子の世の中でよりよく生きてほしい。もっと楽チンに生きていけるようになるために、音楽を通して生きる力を授けたい。 このような指導をしてきた。  これからの私は、愛する活動でさらに社会貢献を続けていく。

2024年3月、特別支援学校教諭通算35年を勤め退職。  
生徒のためのオリジナル曲を作詞作曲する。  
大人になった3人の息子とお嫁さん、お孫ちゃん1人。  
2024年5月に、障害がある子どもの表現力を伸ばし、生きていく力をつける「障がいがある子・個性的さんのための音楽教室Gift」を開講。